昭和五十七年五月六日 朝の御理解


御理解第八十一節
氏子十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それは安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。


 向こうへ降りたら安心じゃと仰せられるのはどういうことだろうか、自分も安心がいき、神様にも安心して頂ける。ここまで体得したら、もうこの氏子は大丈夫だと、神様も安心して下さるでしょうし、自らもやはり、そうだと思うです。どんな場合であっても、ま、合楽で仰せられます、一切が神愛という風に教えられます。
 ですから、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん。喜びに喜んでと仰せられますから、そういうわけも分かるわけですよね。ところがなかなか喜びに喜べないのです。神愛と分かってるんだけれども、やはりそれを受けきらないというところでしょうね。本当に、一切を喜びに喜んで受けられるようになったら安心じゃということじゃないでしょうかね。
 向こうへ降りたら安心じゃとおっしゃるね、そこで思うんですけれども、合楽ほどまあ、天地の道理をま、克明説き明かすところはないと思う。合楽理念ほどね、こんなわけだから有り難く頂かなければならないぞ、為には天の心がいるんだぞ、地の心がいるんだぞ。日頃いわゆる、実意丁寧神信心、いわゆる日月の心にならなければいけないぞとま、仰せられるわけであります。
 ですから、成る程と合点がいくわけですね。なるほどと。ですからま、これはあの、応用問題ということですね。もうその理は同じなんです。どんな場合であってもね、経済問題なら経済問題でもう本当に、いろいろおかげを頂いて、胃運らば、金銭にも不自由せんで済むようになり、必要な金が必要に応じて頂けるようになるようなおかげを頂いてね、もう経済の問題、金銭の問題だけだったら、体得ができると。それはやはり、どんなに苦しいときであっても、それを神愛として、受けて受け抜かせて頂いたらね、おかげを受けられるようになったと。
 ところがその人に今度は人間関係の難しい問題であるとかね、健康の問題とかなるとね、それだってやはり神愛だから、それだってやっぱり有り難く受けなければならない道理を分からせて頂いてるのだけれども、いやこういう、どっこいと受けにくいような問題こそ、大きなおかげを頂くための特効薬ということは分かっているんだ、聞いているんだけれど、どっこいそれを特効薬としてうけきらん、神愛として受けきらん。
 いわゆる、応用問題になると、やはりそこで戸惑っておるわけであります。ね。ですから、結局、そのま、その基本というものがね、しっかりやはり、できなければならんということね、そして理は同じなのですから、どんな場合であってもそれをね、いわゆる説き得るというかね、どんなにそこに応用、その応用問題かねできるようにならなければ、私は本当の事じゃないと思うんですけれども、これはやはり、その応用問題ができるようになったら、どんな場合であっても、どんな事柄であってもね、小さい問題であっても大きな問題であってもということになります。
 小さい問題なら、あ、神愛としてすぐ受けられるけれども、少し大きくなると、それを神愛と受けられない。ということはいわゆる応用問題になると、もうそこで行き詰まってしまうということになるのじゃないでしょうか。
 私は今日、このね、向こうへ降りたら安心じゃとね、それには丁度山登りをするようなもので、なら七合、八合でやめてはできませんね。頂上へたどりつくという、そういうためには少しはきついのですけれども、段々信心が分かって行くに従っていうなら、心が開けてくる。いうならば視野が開けてくるね、頂上に近づけば近づくほど、こうだぁっとこうあたりが広く見えてくるようになる。
 そういう稽古を積んだ上にも積んで、もう一息で頂上というようなところをひとつ、がんばり抜かせて頂いて、また分かっておるのですから、後は下りだから楽な事あるけれども、下りになると慢心が出て、ヤレヤレがでてね、それこそ下りすぎて谷に落ち込むような事があってはなりませんからね。
 それこそ向こうへ降りたら安心じゃというのは、その登り方から下って行く信心のその過程においてです、道理が分かっておるのだ、一切神愛であるということが分かっておるのだと、小さい問題ならそれを神愛として受けられる。皆さんがね、そういう願いをもっておるんですね。
 昨日はくの一会でしたが、こちらの方から、まあ遠方、普通はどこの共励でもいかれん人達が、くの一会くの一会と云うてみんなは行かれますね。それはそれこそ、も修行の第一だと、その修行の第一というのは、自分の心をどんな場合だっても、有り難い有り難いとそれこそ変幻自在にくの一忍法じゃないですけれどもね、有り難い有り難いところころと有り難い心の答えを出していけれる稽古を、身につけたらさぞ有り難い事であろうというのが、私、くの一会のまあ皆さんがくの一会くの一会と云うておられるとじゃないかと思うです。
 ですから、皆がやっぱり願ってるんです。心の中にね、そして、その何故喜ばねばならないか。何故神愛と本当に分かったらどんな場合であっても、御礼が申し上げられる。
 大きなおかげを頂きたい。それにはやはり、自分の心をそれこそ、天地のように生きたいというような大きな心になるためには、天地日月の心を収して行かなければならない。治めていかなければならないね。小さいおかげよりも大きなおかげがいいのですから。
 その大きくなる為の手だてをです、様々に工夫して頂かしてもらう。最近のようにその大きくなるための、いうならば特効薬という風に頂いて見るとです、本当に合掌してその事を受けなければならんのだけれども、それが苦いとかくさいとか云うて、向こうへ押しやろうとして頂こうとしない。そういう私は修行がやっぱり七合目、八合目で信心を中絶してしまうような事になりね、頂上を極めて、それこそいよいよ視野が広くなり、自分の心も豊かに大きゅうなり、これからいよいよ楽におかげが頂けるということになってくる時分に、油断がでたり、慢心がでたりして、向こうへ降りたら安心じゃということをね、教祖がおっしゃっておられるのは、わたしはね、そうした、ま道理を聞かせてもらうのですから、分かっておるのですから、それが小さいことであれ、大きいことであれ、同じ道理なのですから、どういう場合であってもそれを、自由自在に、それこそね、くの一会の方達が稽古の焦点をそこに置いとられるように、どんな場合であっても有り難いと答えを出していけれる、応用問題が解けるようになったときに、私は向こうへ降りたら安心じゃというのは、応用問題が頂けるようになり、解けるようになったときだという風に今日は思います。     どうぞ

 今、私はあのう、御祈念の時に座椅子を使うんですね。それで顔をくるぎますとね、顔が腫れるんです。ところが今日はどうしたわけやったか出してないんです。忘れとるわけでしょね。そうじゃろ、忘れとったじゃろね、そういう時ににね、例えば私の心の中に、どうしたこっちゃか、というたら有り難いということにならないのですよ。ははぁ今日は神様が座椅子を使わずにやってみれとおっしゃっとるなと思うたから昔のように顔をさげて御祈念。やっぱこれが一番御祈念がしよいです。おかげで今日は腫れてないでしょ。あんまり。
 だからね、もどんなささいな事でも、どうしてあんな忘れとったの、どうしたこつのとこういうたらもうダメなんです。どんな小さいことでも、はこれがおかげとこう頂けれる、あ、今日は座椅子なしで御祈念をしてみれと神様がおっしゃっとられるとしたら、その事が有り難いでしょうが。
 も、今日私がいおうとするところはそこなんです。どんな事でもどうしてかちいうたら、もうおしまいです。そこんところを、はおかげとこういただける心なんですよね。どうぞひとつも、それを自由自在に仕えれる、いわゆる心の稽古なんですからね、どういう場合でも、それがなら、小さいこと、大きいこと新居たるまで、そういただけるようになったときに、神様もいや、安心して下さるこちら自信も、安心がいく時であり、おかげの受けられる心の状態の時なんです。
                               どうぞ